2009年9月19日、ツキノワグマ(以下「クマ」とします)によって乗鞍畳平で10名の方が怪我をされる事故が起こりました。
事故直後に実施された岐阜大学乗鞍クマ人身事故調査プロジェクトチームの調査によって以下の事柄が判明しています。
- 加害したクマはオスの成獣で、事故直前まで周辺の植物のような自然の食物を食べていた
- 畳平周辺にはハイマツの実などの十分な食物があり、クマの自然な生息地だった
- 人、車、鉄柵と衝突を繰り返した結果、クマがパニックを起こして攻撃的になったと推測された
クマによる重大な人身事故の多くは人による餌付けが背景にありますが、乗鞍のケースはそうではありません。人を次から次へと襲った行動も、クマが敵の群れに囲まれた場合のような防衛的な反応に近いものでした。ごく自然で普通のクマが、不幸な偶然が重なって攻撃的になったために発生した事故だったのです。
しかしその「偶然」は、どうやら起こりやすいもののようです。
岐阜県HPで乗鞍周辺のツキノワグマの出現が報告されています。
実は、畳平周辺ではその後もクマが頻繁に目撃されています。そしてこの地図で注目すべきは、大黒岳、魔王岳、富士見岳への登山道等で形成された環状構造です。その他にも道路や登山道、遊歩道で形成された環状構造が多く見られます。この環状構造の中へクマが入れば、どこへ逃げてもクマが人と出会う状況に陥ってしまい、逃げた先で人との遭遇を繰り返したクマがパニックに陥りやすい環境となっています。実際、2009年の事故は大黒岳の登山道から道路へ向かってクマが走り出したことが起点となっています。この際、大黒岳の登山道付近に人がいたことも目撃されています。
こういった環状構造は乗鞍に特殊なものではなく、他の多くの自然公園でも見られます。つまりこのような構造があればクマのパニックはどこでも起こり得るものなのです。今後はこのような利用形態、構造について事故リスクの観点から十分に議論され、適切に改変されることが望まれます。
では環状の構造があれば同様の事故が今後も繰り返されるのでしょうか?
事故を予防するために、どういった対策が必要なのでしょうか?
岐阜大学によって、その後も調査が実施されています*。
2014年、2015年に実施された望遠鏡を用いた定点観察調査では、畳平周辺の28時間の観察で28回のクマの出没が記録されました。観察されるクマは親子、亜成獣、成獣と様々で、落ち着いた状態で主に草本類を採食している姿が確認されています。もしクマが人を避けないのであれば、周辺にはかなりの数の観光客がいますから、相当な数の目撃報告があるはずです。しかしこの調査で確認された28回のクマの出没のうち、岐阜県統計で目撃情報として登録されていたものは1回(3.5%)だけでした。
こちらが、岐阜県の目撃情報を掲示しているサイトです。
岐阜県域統合型WebGIS クママップ
これらの結果から以下の事柄が分かります。
- 利用者側はほとんど気付いていないが、畳平周辺にはクマが多数生息している
- クマの側がかなり慎重に人を避けて距離をとっている
- ハイマツ帯のような開けた場所でも、周辺にいるクマはなかなか見つからない
事故予防の観点からこれらの結果を考えれば、見つけたクマへ注意を払うだけでは明らかに不十分であることが分かります。実際、2009年の事故を起こしたクマは初めの被害者が見つけた時点でパニックを起こしており、既にコントロールができない状態でした。クマの事故は「見つけたクマへの対処に専念する」ような対応方針ではカバーできないのです。
では、見えていないクマへはどのような対策をすべきなのでしょうか?
クマのパニックを防ぐためにどのような方法があるのでしょうか?
結論から言えば、鈴やラジオのような音の鳴るものを持って行動することです。クマが人を避けていることが明らかですから、人側がそれを補助すればよいのです。
高山帯の観光地で鈴やラジオを持つ意義は以下のようなものです。
- 音に気付いたクマが周辺を警戒する行動を増やし、人との距離をとる
- 興奮して走り出すような距離でクマが人と遭遇する事態が起こりにくくなる
- 人の多くいる(鈴の音が多い)エリアへクマが向かうことを避ける
これらの効果は、人がクマの存在を正確に把握していなくても勝手に発揮されます。鈴等によるクマと人との遭遇の予防は、事故を避ける上で最も重要な管理ポイントで機能し、費用が安く、それゆえに最優先で普及すべき対策方法です。
2014年、2015年の岐阜大学の調査では、鈴やラジオ等のクマ対策を行っている利用者の割合についても調べられています。調査の結果、2009年の事故の後の調査であるにも関わらず、対策をしている人は1663人の調査対象者のうち95人(5.7%)であることが分かりました。
クマと人との事故リスクを考える上で最大の課題は、人側の意識の低さです。クマが存在し、実際にクマによる事故も発生していながら、適切な対策を取る利用者があまりに少ないのです。事故当時に対策していた利用者は恐らくもっと少なかったでしょう。もし2009年の当時、登山道を利用する人が鈴等で対策していれば、そもそも大黒岳でクマが走り出してしまうような人との接触は起こらなかったはずです。自衛のためにも、間接的な加害者にならないためにも、鈴等によるクマ対策は山林に入る際に当たり前の装備とされるべきでしょう。
一般利用者の意識向上は非常に困難な課題に見えるのですが、そこには希望もあります。
岐阜大学の調査では、高山帯のクマに対する利用者の意識調査も行われています。高山帯のクマに関して保全すべきか排除すべきかを畳平の利用者を対象に調べたところ、314人のアンケート調査対象者のうち排除すべきと答えた利用者は8人(3%)にとどまりました。
観光地におけるクマの存在は、その地域で観光業を営む人たちにとってタブーに近い扱いをされることがあります。クマを恐れて観光客が減少する不安があるからです。しかしこの調査から、利用者の多くはクマを危険な害獣とはみなしておらず、自然の一部として見ていることが明らかになりました。
長くなりましたが、結論はとても簡単です。
乗鞍に限った話ではありませんが、山林に入る際は鈴などの対策を取ること。
管理者や観光業者はクマの存在を隠さず、適切な対策情報を示すこと。
これだけで、クマも、利用者も、観光業者も、落ち着いて乗鞍が満喫できるということです。
*森元萌弥・松山亮太・國永尚稔・妻藤李白・中島彩季・生島詩織・吉田智幸・荒井秀・岩木りお・西川優弥・長谷川彩・渡辺祐希・吉田幸弘・中野祐二. 2015. 乗鞍岳畳平周辺におけるツキノワグマの出没と公園利用者の意識. 第21回「野生生物と社会」学会沖縄大会プログラム・講演要旨集: 177.