ツキノワグマの人身事故リスク管理の考え方

クマの被害管理の場面では、「クマをなんとかせよ」という発想が非常に多く見聞きされます。しかし、野生動物であるクマの行動を人が完全に制御するのは不可能です。どこにどのくらいいるのか、それぞれどんな個体なのか、行動に影響を与えるエサや環境がどのように存在しているのか、それがどのように変化していくのか、人側の条件を含めて全く把握できない相手だからです。クマの仲間は、たった1頭を見つけることですら困難な地域・条件もあります。

ではどうするべきか?

今回は本州と四国に生息する「ツキノワグマ」を例に、人身事故のリスク管理に焦点を絞り、整理してみましょう。

 

【ツキノワグマ管理の基本】

クマの被害管理は、大半が「人の行動を適正化する」事に向けられます。人に話をするほうが効率的かつ低コストで、対策の実現可能性が高いからです。

そこで重要になるのは「どのような情報を人側が持つべきか」という内容です。まずは、適正な人の行動を考える上での事前情報をまとめてみましょう。

※以下のタブをクリックすると文章が開きます。

① 基本的な知識

クマの仲間はとにかく誤解と偏見の多い生物です。ツキノワグマは雑食性ですが、中型~大型の動物を襲って食べることはあまり多くはありません。植物質の食物を基本として、アリやハチのような昆虫類や、動物の死体なども食べています。簡単に得られる食物を学習したツキノワグマの場合は、食物がある地域に集中して滞在する傾向があります。ツキノワグマはナワバリを持たず、同じ果樹園に複数の個体が現れるように、食物が豊富な地域では複数個体が同一地点に見つかることも多くあります。

冬季に冬眠する個体がほとんどで、雌はこの冬眠中に飲まず食わずで出産し授乳します。冬眠に備えて多くの栄養を蓄える必要があるため、ツキノワグマにとっては秋の食物資源が非常に重要になります。堅果類(ドングリ)のような秋の食物資源が凶作になった年は、「大量出没」と呼ばれる現象が起こる場合があります。ツキノワグマが広い範囲を移動し、出現する時間帯や地域に関して多少の危険を冒してでも食物を得ようとするため、人とツキノワグマが遭遇する場面や被害が増えるのがこの大量出没という現象です。

人身事故のリスクが高いのは親子のツキノワグマです。親が子グマの防衛のために攻撃的になる傾向があるからです。特に0歳の子グマは移動が遅く危険を察知すると木に登る性質があるため、人が気付かずに親子グマに近づいた場合などは、子グマがその場に止まり移動できなくなった母グマによって威嚇や攻撃が生じやすくなります。

ツキノワグマは基本的に人を恐れており、ツキノワグマが人を攻撃するのは自身や子の防衛を目的としたものがほとんどです。基本的には逃げるために人を攻撃するため、ツキノワグマによる事故のほとんどは軽傷ですみます。ツキノワグマによる事故で亡くなった方は、事故全体の2%程度です。ツキノワグマによる事故で人が亡くなった事例の多くは「失血」を原因としたものです。つまり事故後にレスキューが間に合えば助かった可能性の高い事例が多いということです。

② 適切なモニタリング

ツキノワグマに関して、最も重要なモニタリング指標は「個体数」や「生息地域」ではありません。個体数は推定値に大きな幅が出るものであり、ツキノワグマは学習等によって行動や人に対する危険性を容易に変化させるため、なかなか個体数が事故リスクに直結しません。雑食性である上にエサを求めて広い範囲を移動するため、行動範囲も容易に変化します。

そもそも被害さえ起こらなければツキノワグマは何頭いても問題無いものです。ツキノワグマの適正な数というのは結局、人側(事故・被害リスク)の要素で決まります。

このため、最も重要な指標は「(事故例や被害例を含む)目撃」であると考えられます。我々が避けたい事態である「人とツキノワグマが遭遇した場面」そのもののデータであるからです。近年は多くの地域でクマ類の出没地域や時間等のデータが収集されていますが、こういったデータの収集と分析がツキノワグマの被害管理上最も重要です。目撃のデータはよく「近隣に出没したので注意しましょう」という使い方をされるのですが、これは実は本来の使い方ではありません。基本的にツキノワグマは広い範囲を移動する生物であるため、目撃があったというだけで個別の地点に注意を向けることに大きな意味はありません。その他の広い生息域への注意が薄れる副作用があるからです。

目撃のデータは、収集されたデータ全体を分析し、遭遇リスクの高い「要素」を見つけることで活用します。「捕獲の安全性」で触れましたが、事故リスクの世界には「ハインリッヒの法則」というものがあります。これは以下のように、クマによる人身事故にも当てはまります。

最下層にある「目撃」の情報を収集し、「何が目撃の場面を発生させるのか」を分析し、「目撃の場面自体を減らすことによって事故を予防する」というのがクマ管理の基本です。目撃情報の分析は、危険個体の出現のような「即時対応が必要な事例の早期発見・初期対応」にも活用できますが、基本的にはやはり予防に関する情報の分析と普及のために用いるべきものでしょう。

我々は起こってしまった事故に目を奪われがちなのですが、実際に起こった事故は特殊な要素や偶然が多く含まれた少数の事例です。件数が少ないため、「遭遇した場面の発生に関して一般化できる情報を取り出し、効率的に対策する」予防の観点ではあまり向いていません。事故事例も情報としては非常に重要ではありますが、事例が少数であり、それのみから何かしらの結論を出そうとすると逆にミスリードを起こす可能性があるため、目撃情報を合わせて分析することになります。

目撃情報は「目撃時間」「目撃頭数」「目撃した環境」「遭遇時のツキノワグマの行動」「目撃者情報(地元か観光客か、目撃時の人側の行動、車内屋内等の状況など)」「誘引物や防除等対策の有無・内容」「痕跡の有無・内容」「農業被害や人身被害の有無・内容」「周辺の他の目撃例やその他情報」といった項目を収集し、分析すべきでしょう。産業、植生、土地利用、気候等の地域的な要因によって遭遇の場面の主因も変わりますし、年度によっても変化していきますので、都府県レベルか地域個体群レベルでそれぞれ分析したほうが良いと思います。

③ 初期対応

ツキノワグマは「学習」によって被害を発生させる可能性(つまり危険性)が大きく変化します。

最も危険なのは、人にエサを与えられるなどして、人とエサを関連付けて学習した個体です。エサを得るために人に接近する場面が多く発生し、威嚇や攻撃に発展する場合があるからです。こういった危険個体は捕獲が検討されることになるでしょう。

その次に危険な学習が、人の生活圏にあるエサ資源の存在を覚えるものです。家庭ゴミや家庭菜園などに執着した個体や、養蜂場、養魚場、特定の農作物に執着した個体は、その食物を目的として頻繁にその地域に訪れたり、長時間滞在するために、人との偶発的な遭遇が発生する可能性が非常に高くなります。こういった執着個体に対しては、防除や誘引物の除去を基本とした対策が検討・確認・改善された後、捕獲が選択される場合もありえます。

学習は、状況によって意味が変化するものもあります。例えばツキノワグマが「人間は急に攻撃してくるような危険な存在ではない」といった学習をすることがあります。これは特に車などに対して、シカやイノシシでもよくある反応です。その結果として「人(車)の存在に気付いてもある程度の距離があれば逃げない」というような行動を示す人に慣れた個体が生まれるのですが、これは状況によってリスクが変わります。

例えば人の存在に慣れた個体はパニック的な人身事故を起こす可能性が低くなり、一定の距離を保てば安全な観察が可能となるような、観光地等においては有益な存在となる場合もあります。人間に対して「そこまで危険な存在ではない」と感じているツキノワグマは、人に驚いて走り出すような反応や、偶発的に近距離で遭遇しても攻撃に発展する傾向が弱まると考えられるからです。

一方で、人の存在に慣れている個体は人家周辺のエサ資源に容易に接近・執着しやすく、人とエサとを関連付けた学習へと発展するリスクを持った個体である側面もあります。人が目撃する場面が増えるため、初期対応としてはこういった人慣れ個体に関するものが比較的多くなるでしょう。

ツキノワグマが人慣れや頻繁な出現を起こしている場合は、相手の状況や周辺環境、学習の程度等を把握した後、その危険度に応じて適切な管理オプションを採る必要があります。しかし残念ながら、現在の行政の中にはそういった対応を可能とする十分な組織と人員が保持されていない地域が多くあります。クマ側の状態や周辺環境から適切にリスクを見積もる能力や、捕獲、追い払い、防除、誘引物の除去、普及といった対策オプションを実施する能力、一般市民を指導する能力についても行政側が十分なものを持っているとは言えません。本来であれば初期対応の前に、前提として継続的なモニタリングが存在し、危険個体の予測や対応のシナリオが用意されているはずなのですが、それもありません。

現在はツキノワグマの出現に際して警察職員が出動する事が多いのですが、警察官もクマ管理の専門家ではありません。ツキノワグマを向かってはならない方向へ追い出したり、パニックを起こしかねない対応をしたり、人を安全ではない方法や方向で誘導したり、一歩間違えば人災となるような対応がちらほら見受けられます。

こういった専門性を確保していない野生動物の管理体制そのものが、解決すべき大きな課題であると言えるでしょう。

④ 事故後対応

クマ類の事故において「事故の最中の対応」というものはほとんど存在しません。行政や警察が事故を認知して対応する頃には、既に事故が完結し、クマもどこかへ移動している場合が多いからです。もし事故を起こした個体が現場に残っていた場合、あるいは市街地にクマが迷い込んだ場合は、避難誘導、要救護者の確保、加害個体の排除というシンプルな項目についてその場で最善を考え、臨機応変に対応するしかありません。

実際には事故後に現場に駆け付ける場面が多くなると思いますが、そこでも事故の原因と状況、加害個体の特性についてはその時点で十分な情報収集をしなければなりません。例えば、事故が偶発的な遭遇によるものなのか、特殊な環境や特殊な個体に大きな要因があるものなのか等は注意深く観察し、その場で最善の対応を考えなければなりません。

加害したツキノワグマの学習状況も詳細に観察する必要があります。例えば偶発的な遭遇による事故であっても、被害者が運悪く死亡してしまい、その遺体を加害個体が摂食した形跡があれば、速やかに適切な方法での捕獲を検討しなければなりません。国内のツキノワグマではほとんど観察されたことのない非常に稀な例ですが、加害個体が「ヒトは簡単に得られる食物資源である」と学習した場合、襲撃が連続する可能性があるからです。

残念ながらこれらの対応はマニュアルで全てがカバーできるものではなく、ある程度の知識と経験を持った人員が、その時その現場にある情報を収集・整理しつつ、即時的な判断をすることが求められる部分です。現場対応や事故の現場検証が専門ではない人員で行われている部分、あるいは検証そのものがなされていない部分にも大きなリスクが存在しているのです。

 

 

【捕獲への誤解】

行政内における対策オプションの知識や経験の不足は別の形でも問題を生みます。実は、ツキノワグマの管理において一番問題を起こしやすいのは「危ないから何か起こる前にツキノワグマを捕獲してしまえ」という意見です。不思議に思われる方もいらっしゃるかも知れません。しかしこれは、捕獲に関連したリスクを整理・把握できていないために起こる意見です。

※以下のタブをクリックすると文章が開きます。

① クマのリスク

ツキノワグマは先述の通り死亡事故をあまり起こさないのですが、猛獣のイメージからリスクが過大に見積もられている部分があります。そもそも、ツキノワグマとヒグマの死亡事例の件数を見ても、他の野外での事故に比べてリスクは高くありません。

※環境省統計、厚生労働省人口動態調査、厚生労働省食中毒統計資料、警察白書、国立感染症研究所資料、鳥獣関連統計、動物愛護管理行政事務提要などより作成

クマ類は一般的に「怖い」と認識されている存在です。しかしこの「怖い」という「感情」と、「危ない」という「リスクの判定」は全く意味が違います。現在行われているツキノワグマの捕獲の多くは、残念ながら「危ない」からではなく、実際には「怖い」から行われているものが非常に多くなっています。つまり根拠に基づいた捕獲の判断ではなく、イメージに基づく感情的な判断になっている場合が多いということです。

この「怖い」という感情は「相手をよく知らない」状況で「イメージ」からわき起こる性質のものです。例えばシカとツキノワグマを見比べれば「クマのほうが怖い」という人ばかりだと思いますが、シカの飛び出しに関連する交通事故やダニ(SFTSリスク)の分布域拡大への寄与を考えれば、シカのほうが「危険」かも知れません。

感情的な判断は、ほとんどの場面で対応を間違えさせます。住民の多くがクマ類について十分な情報を持ち、根拠に基づいて状況を把握できれば、怖さも事故リスクも低下します。この観点が非常に重要なのです。

② 捕獲のリスク

ツキノワグマの捕獲は、実質的には「人身事故が起こったらどうするのか」という意見を理由として実施されるものが多くなっています。しかし捕獲には、一般の方があまり想像していない一面があります。それは「捕獲行為によって事故や危険な場面が多く発生している」という点です。基本的に捕獲は、パニックを起こしたツキノワグマに人が接近する場面を生じさせる、非常に危険な行為です。

捕獲に関連した事故は、山林での偶発的遭遇のような事故に比べて症状が重くなりやすいものです。ツキノワグマが逃げられず、執拗な攻撃につながるからです。

例えば、銃を用いてツキノワグマを捕獲しようとした場面で、撃ち損じてしまった場合はどうなるでしょうか。興奮し、混乱し、非常に攻撃的になったツキノワグマが出現することになります。場合によっては、ツキノワグマが移動が困難な怪我を負ったために、捕獲地点周辺にとどまってしまうかも知れません。これは自然なツキノワグマとは全く別のリスクを持った状態であり、捕獲行為の直後に人と接触してしまったような場面では、既にツキノワグマが興奮状態にありますので、鈴やラジオといった基本的な対策がほとんど意味をなさない存在になりえます。ツキノワグマが逃げられないと感じ、攻撃に転じやすくなるからです。

あるいは罠を用いてツキノワグマを捕獲する場合、親子グマが大きな問題となります。子グマが罠にかかってしまった場合、子グマの防衛のために攻撃的になった母グマが罠の周辺に滞在するからです。はこ罠によってツキノワグマを捕獲する場合、誘引餌としてハチミツを使用する事が多いのですが、捕獲があったとしても捕獲地にこぼれたハチミツの臭いはなかなか消えません。結果として、捕獲個体以外のツキノワグマを長期間にわたって捕獲地周辺に誘引してしまう可能性があります。また、罠での捕獲は捕まえて終わりというわけではなく、最終的には銃器による殺処分を実施する必要があります。つまりクマがいてほしくないと感じるような、人の生活が近くにある場所で銃器を発砲することになるのです。

実は狩猟では、有害鳥獣捕獲で用いられやすい罠での捕獲が禁止されています。つまり、クマを狩猟したことがある捕獲者であっても、クマを対象とした有害鳥獣捕獲の手法に精通しているわけではないのです。有害鳥獣捕獲は夏から秋の実施が主であり、狩猟ではなかなか出会わない覚醒状態かつ興奮状態のツキノワグマを相手にし、周辺に人家がある状況での対応が生じやすい性質のものです。しかし国内には、こういった状況に対応する安全管理上の十分な備えやスキルを持った捕獲者が十分には存在していません。有害鳥獣捕獲の従事者の多くは狩猟者であり、リスク管理の専門家ではないからです。地域によっては、ツキノワグマを見たことも無い狩猟者が、銃を持っているという理由だけで捕獲を依頼される場合もあります。

「狩猟」は基本的に趣味の捕獲行為です。リスク管理の専門家として十分な技能を持った狩猟者はほぼいません。リスク管理の技能を証明する方法も現時点で存在しません。こういった「安全な捕獲の技能」に関する課題は、一般的にはほとんど認識されていません。しかし、捕獲行為そのものに非常に大きなリスクが存在し、実際に捕獲に起因する事故も多く発生しているのが現実なのです。

ツキノワグマの目撃に関して「危ないから捕獲すべき」という場面は実際には少数で、「逆に危なくなるのに捕獲する」場面が多く発生しているということを、多くの一般市民が知らなければなりません。無理のある有害鳥獣捕獲へと行政を向かわせるのは、多くの場合で”怖い”イメージを基にした”一般市民の声の大きさ”であるからです。無理のある捕獲を避けるために、つまり一般市民の安全を考えた最善の対応をするために、客観的なクマのリスクを日頃から普及しておくことが重要なのです。

③ 有害鳥獣捕獲の効果

捕獲にリスクがある一方、捕獲の効果は限定的である場面も多くあります。例えば、ツキノワグマはエサのある地域に複数個体が集まるような状況が多く起こります。クマの被害がある果樹園等にトラップカメラを設置すると、大小様々な個体が入れ替わりながら侵入していた、というような結果が得られることがあります。こういった状態ではなかなか狙った個体の捕獲が成功しませんし、捕り尽くす事もできません。ツキノワグマにも当然警戒心がありますから、果樹園の防除が手薄で楽に手に入る果樹が周辺にあれば、明らかに危険な罠の中のエサをわざわざ得ようとすることはしにくいからです。

防除が破られた状態では捕獲のみで被害を抑えることは難しく、捕獲行為がリスキーであるため、防除の欠陥を探し出して改善することが第一選択になります。農業被害管理として捕獲を実施する場合は「捕獲してくれれば安心」と、防除等の対策が改善されぬまま捕獲のみが実施されてしまうこともあります。

もちろん「初期対応」で述べたとおり、リスクのある個体が出現すれば捕獲すべき状況もあるのですが、副作用に見合った効果が望める有害鳥獣捕獲は実は多くはありません。その判断ができる専門家が、行政の内部には必要です。

④ 狩猟の効果

狩猟がツキノワグマの行動に大きく影響するのではないか、と言われることもあります。「狩猟者の減少によって人を怖がらないクマが増えた」というような内容ですが、もしかすると狩猟がツキノワグマの行動に与える影響はそこまで大きくはないかも知れません。

ツキノワグマの狩猟では主に忍び猟や穴熊猟のような手法が用いられるのですが、基本的にこれらの手法で捕獲されるツキノワグマは、捕獲のその時まで人の存在に気付きません。このため、狙われたツキノワグマは高い割合で捕獲されて環境から除去されることになります。人の接近に遠くで気付いて逃げる個体もいるかも知れませんが、その場合は、人と対面して発砲されるような「ヒトに襲われた」という明確な経験が生じる場面に至りません。クマがハイカーを避けるような反応と同じものです。つまり「狩猟行為に直面したがうまく逃れて人への警戒心を強めた個体」は、自然環境中に生息するツキノワグマ全体から見れば非常に少数であるはずです。クマの仲間は単独行動が多く、危険なものを教え合う言葉もありませんので、過去の狩猟が盛んな時代でも「狩猟のみによって多くのクマが人を怖がっている」ような状況ではなかったと考えられます。少なくとも現代に用いられる手法で捕獲を増やしても、「人は怖いものだ」と教える機会は効果のあるレベルでは増えないでしょう。

人に慣れた個体が近年になって観察されるようになったのは、その昔は人が高度に利用してバッファーゾーンとなっていた薪炭林のような地域が今は立派な森になって市街地に隣接している事や、耕作放棄地や栗や柿といった人工的で豊富なエサ資源が人家周辺に放置されている環境に理由があるのではないかと考えています。人とツキノワグマの生活域が重なってしまい、人とツキノワグマが遭遇する場面が増えれば、「人はそこまで危険ではない」とツキノワグマが学習する機会がそれだけ増えることになります。そもそも単純に、エサと生息環境の改善によってツキノワグマの数が増加すれば、特殊な性質を持つ個体が出現しやすくなります。そういった少数の特殊個体・人慣れ個体が、「人から逃げないクマ」の目撃件数を大幅に増やしている可能性もあるかも知れません。

つまり狩猟が与える行動学的な影響ではなく、より広い範囲での社会的な変化の結果としてツキノワグマと人との接点が増えている環境が、「人慣れグマ」を増やす理由ではないでしょうか。それゆえに、防除・誘引物の除去・バッファーゾーンの整備のような対策が人慣れ防止の観点からも重要であると考えています。

⑤ 錯誤捕獲

実はツキノワグマが捕獲される場面は狩猟や有害鳥獣捕獲だけではありません。特に大量出没年では、イノシシやシカを対象とした罠にツキノワグマが誤ってかかる「錯誤捕獲」と呼ばれる現象が多発します。この現象が発生すると、そもそもツキノワグマを捕獲することを想定していませんので、非常に危険な場面が生まれてしまいます。くくり罠での錯誤捕獲の場合はワイヤーが届く範囲をツキノワグマが動き回ることになりますし、はこ罠の場合は罠を壊して外へ出てくる可能性があります。子グマがかかっている場合は、周辺に母グマが潜んでいる可能性があります。

この錯誤捕獲の対応は、相手がかかった罠の状況が不安定で、周辺環境も千差万別、ツキノワグマも非常に攻撃的になっており、専門家に放獣を依頼した場合であっても安全が確約されません。このため、人命と安全を優先した殺処分が検討されることが多くなっています。

錯誤捕獲でも、かかった後の対応ではなく「予防」を優先すべきです。つまり、特にシカやイノシシの許可捕獲について、錯誤捕獲を回避する手法を用いるように適切に指導しなければなりません。はこ罠や誘引式のくくり罠であれば、エサをまいたその日に蹴り糸(トリガー)を設置するのではなく、餌付け後しばらく様子を見て、足跡を確認してから蹴り糸をかけることを許可条件の中に盛り込むべきでしょう。

くくり罠に関しては、短径12㎝を超えている罠や締め付け防止金具の無い罠による錯誤捕獲が後を絶ちません。「捕獲の安全性」の部分でも触れましたが、実際の許可捕獲に対する取り締まりや監視の強化、そして捕獲従事者への研修が必要でしょう。

まだ問題として大きく取り扱われていませんが「わざと錯誤捕獲する(≒密猟)」行為への対策も十分に考えなければなりません。ツキノワグマの胆嚢は「熊胆」という非常に高価な漢方薬の原料となるため、高い金銭的な価値を持っています。ツキノワグマの捕獲は危険を伴うものであるため、非常に高額な捕獲報奨金が設定されている地域も多くあります。あるいは猛獣というイメージから、捕獲した経験そのものが狩猟者の間でステータスとして認識されている場合もあります。つまり「ツキノワグマを捕獲したがる人」はそれなりの数いるのです。イノシシを捕獲するために架設されたはずのはこ罠にハチミツがかけられているような例が、実際にあります。

これも有害鳥獣捕獲(許可捕獲)の許可基準によって制御すべき部分ですが、「錯誤捕獲によって殺処分されたツキノワグマは一部であっても利用できないこと」「やむを得ず殺処分する場合は、罠を架設した者とは別の捕獲者が殺処分を実施すること」を明記すべきでしょう。「わざとツキノワグマを捕まえる行為」によって捕獲者がどのような利益も得られない制度環境を作らなければなりません。

 

 

【予防:人とクマの接触の管理】

ツキノワグマの管理は、結局のところ普及啓発によって人側がツキノワグマとの適切な関係、適切な距離を保つ状況を作ることが中心になります。事故が起こった後、無茶な捕獲を実施した後、錯誤捕獲が起こった後の対応ばかりでは、予算や人員がいくらあっても足りません。元栓を閉めることが必要です。しかし残念ながら、行政側の普及内容が「注意しましょう」の一文のみというような、不親切な形である場合も多くあります。元栓を閉めるために一般市民に提供すべき情報、「何を伝えるべきか」を環境や対象別に簡単にまとめてみましょう。

※以下のタブをクリックすると文章が開きます。

① ビジターに対して

登山やトレッキングなどの、「人がクマの生息域に入る」際の注意点です。

こちら(クマとの不幸な事故を避けるために)にまとめてあります。ぜひご活用下さい。

自然公園等では、これらの対策を管理者側が積極的に普及することも重要です。

観光地での管理に関してはこちら(乗鞍畳平での事故)をご覧ください。

② 住民に対して

クマが生息する山林に接した住宅地等では、遭遇の場面の多くがエサの存在によって引き起こされます。カキやクリのような果樹、ベリー類、養蜂箱、生ごみ(コンポスト)、味噌やぬか漬けのような発酵食品、ペットや飼育動物のエサ、ガソリンのような揮発性の物質等は、匂いに引き寄せられたツキノワグマが執着して滞在し、人との遭遇の場面を作りやすくなる可能性があります。人為的なエサ資源の他にも、例えば自然に生えているサクラ、サルナシ、ヤマブドウのような木の実、ハチの巣、アリの巣のようなものに誘引されることもあります。自然に死んだ動物や交通事故で死んだ動物の死体に執着する場合もあります。

ツキノワグマは雑食性ですから、エサになりそうなもの、特に匂いのするものは人家や倉庫等からは遠ざけたほうが良いでしょう。保管する際はしっかりと密閉し、臭いが外に出にくい形にすべきです。ドングリ類のようなツキノワグマの秋の餌資源が不作の年は、こういったエサ資源への対策について繰り返し啓発が必要です。

近年の大量出没年では、車をおりた瞬間にツキノワグマと遭遇し事故に発展する事例も多く聞かれます。これは恐らく、移動してきた車に対して親子グマの逃走が間に合わず、あまりに近距離となる状況が生じたために攻撃に発展してしまったものであると考えられます。車での移動は、野生動物の移動よりも圧倒的に速く人を運びます。特に大量出没年は、それまで人がいなかった農地、果樹園、墓地等で車を降りる際は周辺をよく確認すべきでしょう。車の乗降スペース周辺の誘引物を除去し、ツキノワグマがいないことを十分に確認できるよう草刈りをしておくことも重要です。

③ 農林水産業者に対して

果樹園、養蜂場、養魚場のような場所は防除が必要です。クマは冬眠する生物であり、ほとんどの場合で冬期の防除(積雪の影響)を考える必要が無いため、電気柵の設置が選択しやすい防除方法になります。電気柵については「効かない」「破られた」という意見も多くありますが、基本的には張り方に問題が無ければ非常に高い防除効果があります。

柵を突破される理由としては以下のようなものがあります。

・守るべきエリア全てを囲っていない
・柵線の下に動物が移動できる土管、水路、くぼみ等が通っている
・昼間の通電をオフにしている
・柵の設置位置と果樹等の位置があまりに近い(遠ければ遠いほど良い)
・柵線にクマが登れる木が隣接(1m以内)している
・柵線の電圧が低すぎる(5000v以下)
―柵線の総延長に比べてバッテリーが弱い、消耗している
―柵線のたわみ等で柵線が地面等に触れている(漏電)
―草が伸びたり、木の枝が落ちたりして柵線に触れている(漏電)
―アースがしっかり繋がれていない
・柵線が高すぎる、線の間が開きすぎている(20cm以上)
・ガイシが内向きについている、ポールが柵線の外にある
(つまり動物が柵線に触らずにポールを押して柵を倒せる)
・柵線周辺の地面が絶縁体で覆われている

これらの点に注意しつつメンテナンスを継続する必要があります。

重要なのは、破られた時にどのように対処するかです。柵の破損をそのままにしておけば、柵の入り口として使われた部分や出口の破損個所が多くの動物に利用され、学習した加害個体がどんどん増えてしまいます。このため、柵の内側に被害が生じた時点で速やかに柵の全周を点検し、侵入口を含めて柵を補修する必要があります。特に電圧の低下に関わる異常は、慣れて柵線を鼻で触らなくなるような、電圧が回復した後も柵の効果が非常に低下した個体を生じさせる可能性があるため、定期的に確認する事が重要です。

こういった情報を、実地的な研修を含めて農林水産業の従事者や経営者に十分に伝える仕組みが必要です。

④ 捕獲者型

捕獲者に対しては、先述のように錯誤捕獲の予防について十分な仕組み作りが必要ですが、それに加えて錯誤捕獲があった場合の対処対応についても事前に整理し普及しておく必要があります。錯誤捕獲を起こしたほうもパニックになり、状況を確認しようと近づいて事故に発展する事例が報告されているからです。特に、錯誤捕獲が起きやすいシカ・イノシシを対象とした許可捕獲の従事者に対しては研修が必要でしょう。

⑤ 迷入型・パニック個体

近年では特に大量出没年に、ツキノワグマが市街地へ出現する事例が見られるようになってきました。市街地は人が密集しているという環境に加え、多くの人がクマの存在を想定した生活をしていないため、対応が非常に困難な状況を生み出し、一事例だけで多くのリスクや対応コストが生じてしまいます。今後も大量出没という現象は数年おきに発生すると考えられますので、市街地へのツキノワグマの出没等が見られた場合に「特殊な事例で再現性が無い」と考える事は非常に危険です。

予防とリスクの低減のために、市街地への侵入経路や高リスクな環境、構造等を調査し、周辺環境の改善や関係者間で共有できる最低限の対応マニュアルの整備などを実施しておくべきでしょう。これは普及というよりは、市町村の管理計画のようなより具体的な施策の部分で必要となる発想です。

普及というのは、「普及対象」と「対象に持ってほしい情報」を明確にして計画的かつ効率的に実施しなければなかなか効果が生まれません。被害や遭遇を発生させやすい人の属性を分け、その属性それぞれに対してしっかりとプランを持って普及を実施することが重要です。もちろん、管理すべき地域ごとに情報をしっかりと収集し、それぞれの地域特性に合わせて普及すべき内容を洗い出すことも必要です。

 

 

【冷静で効果的な対応を】

事故や目撃が起こった際、現場にいるのは「ツキノワグマ」と「一般人」です。このためツキノワグマの管理では、常に「一般市民の目線」での「適切な情報の普及」が中心に置かれなければなりません。現場対応も当然重要なのですが、常日頃から人とツキノワグマの遭遇を発生させる要因、被害を発生させる要因、被害が悪化する要因について情報を収集・分析し、効果的に還元するシステムが何よりも求められる部分です。

専門家の意見の中にも「専門家本人がその場にいたらどうするか」で構築されているような、感覚的なもの、特殊なもの、地域限定のもの、真偽不明のものがまだまだ含まれているように感じます。適切な情報収集体制が確立されていけば、こういった曖昧な点も今後見直されていくでしょう。

重要なのは、ツキノワグマに対して感情的な反応や感覚的な判断をしないことです。理性的な判断のための根拠の収集と適切な情報の普及、つまりモニタリングのシステム構築とそれを分析し一般市民向けに翻訳できる専門家の配置が、ツキノワグマの管理が抱える最も大きな課題と言えるでしょう。